教員。妊娠。出産。子育て。

高校教員として働く私の、妊娠、出産、子育て、勉強についての備忘録。

「抱っこ」について考えました〜「育休」であって「家事休」ではない〜

仕事をやっていた頃に比べると、今の育休生活の精神的に充実した毎日はかけがえのないものだと感じている、というようなことを前回書いたのですが、考えてみたら最初からそうではありませんでした。思うようにやりたいことができずにイライラするということはありました。それが、あるとき考え方を変えたことによって、ストレスに感じなくなったので、忘れないために書いておきます。

 

「抱っこ」要求

 

赤ちゃんはたいていそういうものなのかもしれませんが、うちの娘は「抱っこ魔」です。あるお母さんに言わせれば、「抱っこ星人」なのです。起きていて意識がある時間の9割は「抱っこ」もしくは肌に触れていたり、目を合わせていないと泣く、怒るわけです(目が合っていてもやはり最後は「抱っこ」を要求するので、あまり長持ちはしません)。

 

「抱っこ」とは……

 

「抱っこ」とは何なのかを、「抱っこ」をしながら考えていました。しかし、それは考えるだけで、考えたそばから消えていってしまいました。覚えているうちに何かに書き留めておこうと思っても、置くとすぐにぐずり、泣いてしまいます。思考を頭の中で言語化してはみても、文字に残さないとこんなにもはかなく消えてしまうものなのかと恐れおののきました。そして、これが案外ストレスに感じました。首がすわらないと、片手で携帯電話もろくろく扱えません。手が空いたら、真っ先に書き留めればいいのですが、残念ながらそういった作業は生命維持に必要な雑多なあれこれ(食事したりお風呂入ったり)が優先されて、二の次になってしまうのです。

「抱っこ」とは、思索する時間が余るほどありながらも、それをアウトプットすることを手足を縛られ制限されるものでありました。そういうわけで、いろいろ考えた中でも比較的よく覚えていることを書き残しておきたいと思います。

 

他のことができないストレス

 

「抱っこ」をしていると、手足が縛られた状態になります。足は関係なさそうに思われがちですが、赤ちゃんは「抱っこ」されている時、「抱っこ」している人が座っていたりじっと立っていると怒ります(もちろん個人差はあると思います)。街中や公園でも、だっこひもをつけた人をよく観察していると、歩いている以外の時は常に体を揺らしています。

したがって、歩く範囲を限定されはしないものの、座ったり休むことができないという意味で、手足が拘束された状態になります。首が据わっていない期間は、片手では必ず首を支えていなければならないので、完全に両手を縛られます。

手足は縛られていても、目や頭は働きます。むしろ、手足に自由がないからこそ、よけいに色々なもの目が行き、考えをめぐらせることになります。そうすると、「ああ、あれをやっていない」「あれもやらなきゃ」「ここが汚れている……」など、いつもできていたことに加えて、それまでは気にならなかったようなことまで気になってきます。「今手が空いていれば3分で終わらせられるのに……!」こういう細かいことを、「抱っこ」している間少なくとも10個くらいは思いつくのですが、自分の記憶力のせいもあるのですが、メモもできないため、半分は忘れてしまいます。ようやく子どもが寝たと思うと、やりたかったことの最優先事項に全速力で取り組むわけですが、すぐに目覚めて泣き出すか、二つ目で目覚めるかは誰にもわかりません。うまくいっても四つ目くらいで目覚めることが多いです。

もちろんここでいう「やりたいこと」とは、本を読んだり映画を見たり……といった個人楽しみのことは一切ありません。ゴミ捨てや掃除、洗濯に始まり、役所や職場への書類を書いたり発送したり、人と連絡をとったりといったことまで、大きく「家事」といえることばかりです。しかし、何より優先されるのが、自分の生命を維持する「食事」です。中には食事を摂れないために、母乳が出なくなってしまうお母さんもいます。次に生命維持に関わるのが、「睡眠」です。これもまた、母乳の出来に関わってくるらしいのです。となると、母親の「食事」と「睡眠」は、育児の一環と言っていいものですね。

つまり、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」がたくさんあって、頭ではわかっているのです。そして次々に思いつきもするのです。しかし、体が空かないのです。やっと取り組めたと思ったら、自分の意図しないタイミングで強制的に中断されるのです。やっていたことが中途半端になってしまいます。他のやりたかったこともいくつか忘れてしまいます。

 

育児と教員の仕事

 

これは、教員やっていた時に感じていた「忙しさ」によく似ていました。「授業」や「講習・補習」、「部活動」という手枷・足枷があり、その隙間で「仕事」をしなければならないのですが、呼び止められたり、生徒が相談に来たり体調を崩したりで自分の意図しないタイミングで強制的に中断させられのです。必要なことをメモしておくくらいはできるので、忘れてしまうことはあまりないのですが、とにかく生じる「隙間時間」が少なすぎるのです。そもそも「授業」するのにも準備が必要なのですが(毎日4〜6時間プレゼンするようなものでしょうか)、それ以外の事務的な「仕事」も普通にあります。

「今日は6時間授業だったから、全然仕事できなかったよ〜!」とよく漏らしていました(6時間授業はなるべく避けるように時間割を組まれるのですが、どうしても生じることがあります)。するとある時夫に、「授業って仕事じゃないの?」と言われました。確かに、一般的な目から見れば、「授業」は立派な教員の「仕事」に見えます。というよりも、外から見たら、教員って「授業」以外に何かやってるの?というイメージでしょう。ところが、実際は授業と同じくらいか、大抵の場合それ以上に他の事務的な仕事があります。打ち合わせや会議もあります。それに加えて授業の準備もあるのです。それでもやはり、「授業」は教員の仕事の根幹となる「仕事」に違いないと、その時思ったのです。

同じことが、育児にもいえたのではないでしょうか。私は、「抱っこ」が、乳幼児育児の根幹であることを忘れかけて、他の雑務に気をとられ、その雑務ができないことに焦りを感じていたのです。

 

「育休」であって「家事休」ではない

 

家にいると、それまでは適当だった家事を、何となくちゃんとやらなければならないという気持ちになったり、できていないところが気になってしまったりします。そもそもそれまでは1日2時間くらいしか過ごさなかったリビングに四六時中いるようになるので、居心地がいいようにしたいと自然と思ってしまいます。でも、そういった家事をやるために「抱っこ」をおろそかにして、子どもが泣いて焦ったり、「抱っこ」をしているから家事ができないとイライラしたりするということは本末転倒なのです。

自分は今育休中であって、育休というのは「育児休暇」の略なのであって、今私が家にいるのは育児のためなんだ!ということを考えるようになりました。育児のために家にいるのであって、家事をするためではないのです。

 

「抱っこ」よりも優先してやらなければならない家事などない!と割り切る

 

赤ちゃんは必ずどこかで寝るので、起きている間「抱っこ」を要求するなら、いくらでもしてあげよう、と割り切ることにしました。しかし、自分の食事が必要な時は、母乳が出なくなると困るので、泣いても食事を摂ることにしました。それ以外に優先するべき家事などないのだと、自分に言い聞かせてやるのを我慢するということを学びました(家事は、別に夫が要求しているわけではないのです、自己満足なのです)。

 

結論。抱っこくらいいくらでもしてあげる!!

 

このような考えに至って、「抱っこ」をしながら抱えていたストレス問題を、「抱っこ」をしている間に解決しました。

そもそも新生児期に子どもが要求することなんて、おっぱい、おむつに「抱っこ」なのですから、かわいいものです。

それにしても、「抱っこ」してほしいなんて、何てかわいい要求なのだろうかと思います。要するに抱きしめていてほしいということなんですよね。その話を夫にしたら、「わかるよ、その(子どもの)気持ち!僕もそうだから」と言っていました。夫も何か寂しさを抱えているのかもしれません……(笑)

そして、親が子どもに要求することは、健康で元気でいてほしいということです。お互いにこれだけしか要求が無いのは、おそらく今のうちだけなのでしょうから、できるだけその要求は満たしてあげたいと思えるようになりました。私の抱っこなんかでよければ、いくらでもしてあげるから!と。そのために何の手が止まってもいいのです。

 

「抱っこ」の見返り

 

この一見無償の愛とでもいえそうな親から子への愛情ですが、実は見返りがありました。

親は、自分の手足の自由を子へと与えるのと引き換えに、実は、24時間365日子どもを可愛がれる権利、ほっぺや太ももをプニプニできる権利、キラキラの目でとびきりの笑顔をもらえる権利、という親の特権を手にすることができるのです。

今日もその権利の行使を楽しみに「抱っこ」要求に応えるのでした。