教員。妊娠。出産。子育て。

高校教員として働く私の、妊娠、出産、子育て、勉強についての備忘録。

夫が平日育児を離脱して2か月半、仕事について考えています

9月に入ってから、保育園の送り迎えは基本的に私一人でしています。

夫は、7月までは4ヶ月間、毎朝の支度と見送りを頑張ってくれました。

ところが、私の夏休み期間を経て、いろいろと事情が変わってきました。

夫の海外出張が増えそうなのと、私が7時前に家を出てから保育園へ送りに行く8時までに電話会議が入ったり、緊急対応があったりすると、支度すらできず、仕事もままならない、と泣きが入りました。

私から見れば、もう少し早起きする、など、とれる策はありそうでしたが、「できるものならばやっている」というのが、彼の理論。それ以上言っても平行線、結局彼の仕事を変えるか、私の仕事を変えるか、住む場所を変えるか、という話になって、それは送り迎え以上にエネルギーを要することなので、私の自助努力によって解決することになりました。

私の出勤時間を遅らせて、保育園の登園時間を開門と同時に早めてもらい、帰りの時間も遅らせてもらう。それでも16:30退勤、17:40お迎えなので良い方かとは思います。延長保育になることもまずありません。

その代わり、土曜日は毎週家でおうち保育園。子どもと二人で過ごしてくれています。土曜日は私は保育園送りがないので6:50に家を出て、13:15退勤。帰宅は14:30過ぎです。

平日は子どもが起きている時間に夫が帰宅できないことも多く、基本的には何もできない、と割りきることにしました。その代わり、というのはなんですが、土曜日半日以上を面倒見てもらうのです。

結果は、ストレスフリーです。

もう平日はこの人には基本頼らない、と決めると、心が軽くなりました。

たまに、ここまでして続ける自分の仕事に、どれほどの価値があるのだろうか…と虚無に陥ることもあるのですが。やりたいことばかりではないのが、仕事ですよね。

特に、夫に仕事をやめてもいい的なことを言われると、心が揺れます。最近はむしろやめてはどうか、という論調になってきました。

彼の中高の恩師(国語の先生)は、結婚式まで来て頂いた方で、今も同級生とたまに会っているそうなのですが、その先生の話の影響が大きいみたいです。

要するに、奥さんには仕事をやめてもらって、家族で過ごす時間をなるべくたくさん持つことを勧められたようです。教員という仕事は割りに合わないというのをよく知る先生だからこその助言なのかもしれません…。

というのも、そもそも基本的に私は週休2日ではないのに、給料は夫とだいぶ差があり、私は夫にいわせれば完全なワーキングプア状態になっているのです。しかも休みがとりにくい。平常授業期間は基本的に有休許可がおりません。でもそれって、一年のうちのほとんどの期間です。

たとえ夫がバケーションを取れても、私が授業がある日は有給がとれず、取れても盆と正月と春休み。長期の連続はなんだかんだあって無理なことが多いです。私の仕事がなければ、出張も家族で行けるし、彼の仕事のモチベーションも上がるとか…。

思わずいろいろ書いてしまいましたが、仕事を続けるかどうかは繊細な問題です。夫は私が「仕事をする」という事実には理解があるものの、今の職場と職業には限界を感じているようです。そういう意味では理解がないのです。そして、肝心の自分自身も、限界を感じています。滅私奉公が美徳とされるような教育現場と、専任ならなんでもかんでもやらなければならない今の職場の体制にも。 

結局、仕事がありすぎると、どこで手を抜くかというと、授業になってしまうわけですよね。あと、自己研鑽。本を読んでいなさすぎる。インプットが少なすぎる。10年前から知識は変化していないのではないか、むしろ退化しているのではないか。本末転倒もいいところです。

こんな状態で今の仕事を続けるのに、自己嫌悪を感じるのですよね…。

非常勤になったら時間は増えるのですが、収入は半分以下になります。それも致し方ないか…。

現行型のセンター試験廃止を見据えて、大学院で新しい国語指導というものを研究してみたい、という希望も、実は持っています。これは更にお金がかかる。それに、また教員に戻るのか、という疑問も残る…。迷走してますね。

はっと気づくと、今日は11月19日でした。これは、毎年11月20日前後になるとかかる「11月病」ではないか!長い2学期の半ば、期末考査まではまだ間がある…この時期に、必ずと言っていいほど「仕事やめようかな、変えようかな…」となるのです。

たいてい、期末試験シーズンになると弱まり(忙しすぎて忘れるともいう)、12月のボーナスが出ると治ります。(まさに、現金…)

授業は好きだし、生徒も好きなんですけれど、いろいろな事情で「会心の授業」というのがなかなかできない…。それが、ストレスなんですよね。そんなピリピリを感じ取って、夫が、仕事、やめたら?となるわけです。

いろいろ書き足りないし、これだけだと誤解される部分が多々ありそうなのですが、ひとまずここまで書き残しておきます。書けたら補足を書こうと思います。














宿題

この季節、教員は生徒から宿題をもらいます。

入試問題、という宿題です。

推薦入試が本格化してくると、大学の説明会で過去問をもらったものの、答えが付いていないので合ってるかみてほしい、という生徒がやってきます。

一般入試は赤本があるのですが、推薦入試は情報が少ないんですよね。

今ある仕事をするだけでも全く時間がないわけですが、いつも「いいよ」と受け取ってしまいます。

むしろこういう仕事が好きで、教員やってるようなものなので、事務仕事があるからといってこういうのを断ってしまうと、本末転倒になってしまいます。無理して続けている意味がなくなるというか。

まあ、ひとにいわせるとこっちの仕事の方は「末」で、「効率悪い」ということになるのでしょうが…。

合理性や効率だけを求める生き方を否定し続ける唯一の教科が、国語だと思うので、仕方がないですね。

そもそも効率とか考えていたらこの仕事していないわけです。効率が一番良いのは数学でしょうか…。だからかはわかりませんが、数学の教員はいつも効率のことを考えているし、それに対して厳しいところがあります。仕事早いですし。

少しは見習わないといけないのでしょうね…。

一学期終了しました。

先週で、無事一学期が終了しました。

四月から、無我夢中の3ヶ月でしたが、ここで少し力を抜けます。

夏休みといっても、ずっと休みになるわけではなく、「有給を取っても良い期間」になるだけなのですが、今年は講習が一つだけ(5日間)なので、かなり楽です。まあ生徒が夏休みなだけで、部署の仕事は普通にあるし、入試作問とか特別な仕事も増えるし、高3生も頼ってくるのでなにかとあわただしいです。

それでもいつもの調子なら、まず夏期講習が前期と後期と二回を2クラス。次に勉強合宿3日間。ついでに毎日の部活と部活の合宿と大会など…で、普段よりもハードな毎日となっているところでした。そんな、例年と比べたらだいぶましです。

ちょうど去年の今頃産休に入って、歌舞伎観たり、実家へ行ったり、箱根を旅行したりして最後のバカンスとばかりに遊び回っていました。そうしたら予定日の半月前に管理入院してしまったという…思い出せば、入院2日前に叙々苑行ったなあ。

今週も出勤の予定でしたが、朝娘が久々の発熱。病院と看病のため今日はおやすみします。授業なくてよかったです。



学期末!

期末試験の季節です。
しかし、自分のテストが出来上がりません。

所属部署も繁忙期で、教育実習が終わったと思ったら、こんどはそっちにごっそり空き時間を持っていかれてます。

教育実習の成績まだ大学に送ってないし…。

しかし…もうちょっとなんとかならないのかなという仕事で時間が失われるのが腑に落ちません。

今の部署は、担任外れて初めて入ったところなのですが、「え、こんな仕事も教員がやるの」と思うことがあります。

例えば、学校案内など資料の発送。

受験生が、興味を持った学校のパンフレットなどを欲しいと思ったら、その学校のウェブサイトから申し込んだりしますよね。実は、それを一つ一つ、宛名ラベルを印刷して、中身を封筒に入れて、発送しているのは全て教員なんです。

もしくは、企業が仲介しているものもありますよね。あれなんかは、企業が代行して発送してくれていそうなものなのですが、これもやはり、最終的には各学校へ回ってきます。これこれこういう人が資料請求しているので、送ってください、という情報がくるだけなのです。ラベルは打ち出してくれるところもあるのですが…。

事務専属の職員がやっていそうなものですが、うちは、教員がやっています。というか、自分ともう一人の合計二人でやっています。

私立だからお金あるんでしょ、と思われそうなのですが、ないんですよね。多分。

それがなくても、授業やっているとテスト作成の作業時間がとれません。物理的に。

そこで、今日と明日、お迎え時間をMAXにしてもらいました。

締め切り間に合うかなあ…。一応何とか形にして、チェックのためのパスはしてきたのですが…。ここから、採点、成績出すまで修羅場が続きます…。



回っていかないと思ったら

なんだか最近余裕がないのです。もともと余裕といえるほど余裕はなかったのですが、ここのところ仕事が回らなくなってきました。

なんでだろうと思ったら、今月から教育実習が始まって、指導教官やっていたことに気がつきました。一応私が授業担当で、もう一人HR担当の二人体制ではあるのですが。

最初の一週間は見学しててもらっていたのでそれほど負担は感じなかったのですが、先週の半ばから実際に授業やってもらているのです。授業やらずにみてるだけでいいなんてラッキーと思えそうなものですが、その後の振り返りや次回の授業へ向けての指導など、空き時間が根こそぎもっていかれることに気がつきました。他の仕事ができない…。

指導教官は二回目なのですが、残業無し勤務形態の教員にやらせるのもどうなのかな、と今さらながらに思います。

今週はいよいよ研究授業。実習生の評価イコール指導教官の評価となるところが痛いところなので、「適当でいいよ」なんて気休め言われてもそこまで手が抜けないのです…。

今の勤務形態になってから、かなり仕事を免除されているので、たいした仕事していないと思っていたのですが、それなりにあったことが分かりました。放課後もほとんど残れないし。三年生の授業準備のために、子ども寝かしつけてから家で問題解く…ということを初めてやりました。復帰してから仕事持ち帰るのは初めてです。

今週で終わっても、大学へ提出する書類もあって地味に仕事が残る。

愚痴でした!

復帰しました。

何とか無事、帰国しまして、 
10時間飛行機を再びのりきり、
到着したその日に成田から保育園へ向かい、
説明を聞き、
健康診断を受け、
面接をし、
怒濤の準備期間を経て、
慣らし保育を4日間し、
フルで勤務が始まり、
昨日初授業を迎えました。
今日も授業を終え、ようやく週末です。

この2週間生きた心地がしなかったな。

慣らし保育一日目は親も一緒でしたが、二日目からはギャン泣きでミルクを飲まず、離乳食食べず、寝ても置くと泣くを繰り返したようです。

どうなることやらと心配しましたが、フル勤務になってからは、この時期に夕方までいる0歳児はいないようで、午後から先生を独占してご機嫌になることもでてきたようです。

ミルクも10時食、14時食と飲めるようになってきました。

よかった。



朝は夫が送り、帰りは私が迎えに行く分担です。

今のところ、定時で帰らせてもらっています。担任ではないのである程度楽なのですが、これからどうなるか…。

「抱っこ」について考えました〜「育休」であって「家事休」ではない〜

仕事をやっていた頃に比べると、今の育休生活の精神的に充実した毎日はかけがえのないものだと感じている、というようなことを前回書いたのですが、考えてみたら最初からそうではありませんでした。思うようにやりたいことができずにイライラするということはありました。それが、あるとき考え方を変えたことによって、ストレスに感じなくなったので、忘れないために書いておきます。

 

「抱っこ」要求

 

赤ちゃんはたいていそういうものなのかもしれませんが、うちの娘は「抱っこ魔」です。あるお母さんに言わせれば、「抱っこ星人」なのです。起きていて意識がある時間の9割は「抱っこ」もしくは肌に触れていたり、目を合わせていないと泣く、怒るわけです(目が合っていてもやはり最後は「抱っこ」を要求するので、あまり長持ちはしません)。

 

「抱っこ」とは……

 

「抱っこ」とは何なのかを、「抱っこ」をしながら考えていました。しかし、それは考えるだけで、考えたそばから消えていってしまいました。覚えているうちに何かに書き留めておこうと思っても、置くとすぐにぐずり、泣いてしまいます。思考を頭の中で言語化してはみても、文字に残さないとこんなにもはかなく消えてしまうものなのかと恐れおののきました。そして、これが案外ストレスに感じました。首がすわらないと、片手で携帯電話もろくろく扱えません。手が空いたら、真っ先に書き留めればいいのですが、残念ながらそういった作業は生命維持に必要な雑多なあれこれ(食事したりお風呂入ったり)が優先されて、二の次になってしまうのです。

「抱っこ」とは、思索する時間が余るほどありながらも、それをアウトプットすることを手足を縛られ制限されるものでありました。そういうわけで、いろいろ考えた中でも比較的よく覚えていることを書き残しておきたいと思います。

 

他のことができないストレス

 

「抱っこ」をしていると、手足が縛られた状態になります。足は関係なさそうに思われがちですが、赤ちゃんは「抱っこ」されている時、「抱っこ」している人が座っていたりじっと立っていると怒ります(もちろん個人差はあると思います)。街中や公園でも、だっこひもをつけた人をよく観察していると、歩いている以外の時は常に体を揺らしています。

したがって、歩く範囲を限定されはしないものの、座ったり休むことができないという意味で、手足が拘束された状態になります。首が据わっていない期間は、片手では必ず首を支えていなければならないので、完全に両手を縛られます。

手足は縛られていても、目や頭は働きます。むしろ、手足に自由がないからこそ、よけいに色々なもの目が行き、考えをめぐらせることになります。そうすると、「ああ、あれをやっていない」「あれもやらなきゃ」「ここが汚れている……」など、いつもできていたことに加えて、それまでは気にならなかったようなことまで気になってきます。「今手が空いていれば3分で終わらせられるのに……!」こういう細かいことを、「抱っこ」している間少なくとも10個くらいは思いつくのですが、自分の記憶力のせいもあるのですが、メモもできないため、半分は忘れてしまいます。ようやく子どもが寝たと思うと、やりたかったことの最優先事項に全速力で取り組むわけですが、すぐに目覚めて泣き出すか、二つ目で目覚めるかは誰にもわかりません。うまくいっても四つ目くらいで目覚めることが多いです。

もちろんここでいう「やりたいこと」とは、本を読んだり映画を見たり……といった個人楽しみのことは一切ありません。ゴミ捨てや掃除、洗濯に始まり、役所や職場への書類を書いたり発送したり、人と連絡をとったりといったことまで、大きく「家事」といえることばかりです。しかし、何より優先されるのが、自分の生命を維持する「食事」です。中には食事を摂れないために、母乳が出なくなってしまうお母さんもいます。次に生命維持に関わるのが、「睡眠」です。これもまた、母乳の出来に関わってくるらしいのです。となると、母親の「食事」と「睡眠」は、育児の一環と言っていいものですね。

つまり、「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」がたくさんあって、頭ではわかっているのです。そして次々に思いつきもするのです。しかし、体が空かないのです。やっと取り組めたと思ったら、自分の意図しないタイミングで強制的に中断されるのです。やっていたことが中途半端になってしまいます。他のやりたかったこともいくつか忘れてしまいます。

 

育児と教員の仕事

 

これは、教員やっていた時に感じていた「忙しさ」によく似ていました。「授業」や「講習・補習」、「部活動」という手枷・足枷があり、その隙間で「仕事」をしなければならないのですが、呼び止められたり、生徒が相談に来たり体調を崩したりで自分の意図しないタイミングで強制的に中断させられのです。必要なことをメモしておくくらいはできるので、忘れてしまうことはあまりないのですが、とにかく生じる「隙間時間」が少なすぎるのです。そもそも「授業」するのにも準備が必要なのですが(毎日4〜6時間プレゼンするようなものでしょうか)、それ以外の事務的な「仕事」も普通にあります。

「今日は6時間授業だったから、全然仕事できなかったよ〜!」とよく漏らしていました(6時間授業はなるべく避けるように時間割を組まれるのですが、どうしても生じることがあります)。するとある時夫に、「授業って仕事じゃないの?」と言われました。確かに、一般的な目から見れば、「授業」は立派な教員の「仕事」に見えます。というよりも、外から見たら、教員って「授業」以外に何かやってるの?というイメージでしょう。ところが、実際は授業と同じくらいか、大抵の場合それ以上に他の事務的な仕事があります。打ち合わせや会議もあります。それに加えて授業の準備もあるのです。それでもやはり、「授業」は教員の仕事の根幹となる「仕事」に違いないと、その時思ったのです。

同じことが、育児にもいえたのではないでしょうか。私は、「抱っこ」が、乳幼児育児の根幹であることを忘れかけて、他の雑務に気をとられ、その雑務ができないことに焦りを感じていたのです。

 

「育休」であって「家事休」ではない

 

家にいると、それまでは適当だった家事を、何となくちゃんとやらなければならないという気持ちになったり、できていないところが気になってしまったりします。そもそもそれまでは1日2時間くらいしか過ごさなかったリビングに四六時中いるようになるので、居心地がいいようにしたいと自然と思ってしまいます。でも、そういった家事をやるために「抱っこ」をおろそかにして、子どもが泣いて焦ったり、「抱っこ」をしているから家事ができないとイライラしたりするということは本末転倒なのです。

自分は今育休中であって、育休というのは「育児休暇」の略なのであって、今私が家にいるのは育児のためなんだ!ということを考えるようになりました。育児のために家にいるのであって、家事をするためではないのです。

 

「抱っこ」よりも優先してやらなければならない家事などない!と割り切る

 

赤ちゃんは必ずどこかで寝るので、起きている間「抱っこ」を要求するなら、いくらでもしてあげよう、と割り切ることにしました。しかし、自分の食事が必要な時は、母乳が出なくなると困るので、泣いても食事を摂ることにしました。それ以外に優先するべき家事などないのだと、自分に言い聞かせてやるのを我慢するということを学びました(家事は、別に夫が要求しているわけではないのです、自己満足なのです)。

 

結論。抱っこくらいいくらでもしてあげる!!

 

このような考えに至って、「抱っこ」をしながら抱えていたストレス問題を、「抱っこ」をしている間に解決しました。

そもそも新生児期に子どもが要求することなんて、おっぱい、おむつに「抱っこ」なのですから、かわいいものです。

それにしても、「抱っこ」してほしいなんて、何てかわいい要求なのだろうかと思います。要するに抱きしめていてほしいということなんですよね。その話を夫にしたら、「わかるよ、その(子どもの)気持ち!僕もそうだから」と言っていました。夫も何か寂しさを抱えているのかもしれません……(笑)

そして、親が子どもに要求することは、健康で元気でいてほしいということです。お互いにこれだけしか要求が無いのは、おそらく今のうちだけなのでしょうから、できるだけその要求は満たしてあげたいと思えるようになりました。私の抱っこなんかでよければ、いくらでもしてあげるから!と。そのために何の手が止まってもいいのです。

 

「抱っこ」の見返り

 

この一見無償の愛とでもいえそうな親から子への愛情ですが、実は見返りがありました。

親は、自分の手足の自由を子へと与えるのと引き換えに、実は、24時間365日子どもを可愛がれる権利、ほっぺや太ももをプニプニできる権利、キラキラの目でとびきりの笑顔をもらえる権利、という親の特権を手にすることができるのです。

今日もその権利の行使を楽しみに「抱っこ」要求に応えるのでした。